2020年12月29日 仕事納め |
きのう は、2020年の仕事納め。
年末年始に待望の本社スタッフが増えるため、朝から机移動、席替え、荷物移動とてんやわんや。
コロナ禍を含め最悪の年だったので、これで厄払い、人心一新となるかどうか。
一夜明けて、今日は休みの初日。 でも、何人かは出勤して仕事をしている。
店舗運営管理部長は、年末年始、自ら店舗の除雪応援に出かけるとのこと。
もちろん、店舗の支配人は休み無しで、応援を引き受けてくれる代行支配人も複数いる。
こうして、年中無休で宿を支えているのに、GoToトラベル停止によって稼働率は半分以下。
もったいない、悔しい。
何十年も、何百年(!)も続けていれば、こんな時もある。腐らずに、平常心でやり続けていくしかない。
さて、仕事を離れ、個人的な今年1年を振り返ってみる。
いろんな事があって、なんだか遠い昔のような気がするが、2月に念願の「ナイル川クルーズ」に
出かけたことが一番の楽しい思い出。
コロナ騒ぎの直前だったので、ほんとうに幸運だった。
あと、おそらく一生忘れられないのは、7年ぶりに年間1,000km走りきったこと。
日常的に走り始めたのは2008年の後半からで、毎月100km以上、 フルマラソンも10回以上完走した。
でも、いろんなことがあって、7年前からは月間50kmに目標を下げて無理しないことにした。
なのに 、おととし結果的に年間900kmを超えて欲が出て、もう一度だけ年間1,000kmを走ってみようと考えるようになった。
ところが、昨年は950kmにとどまり、今年こそは、と年初に心に誓った。
その矢先1月に捻挫してしまい、1ヶ月近く走れなかったので、ここまで来るのはほんとうに大変だった。
前から何度も書いている通り、走りたいと思ったことなど1回もない。
寒い日、暑い日、仕事で心身ともに疲れ切った夜、だらだらしたい休日に、葛藤に打ち勝って走りに出る。
それを1年間続ける。
一緒に付き合ってくれる社内のラン友の存在がなければ、絶対に出来なかった。
もちろんお互い様だけど、ほんとうありがとう。
最後は、土曜の午後に皇居のまわりを2周してジャスト1,000km!
珍しく飲んだ乾杯のビールが、じんわりとおいしかった。
そんなラン友に誘われて、今年は30年ぶりくらいにキャンプに行くようになった。
楽しかった。薪が燃える火を見ていると心が落ち着く。
来年も時々行きたい!
もうひとつ、私の心を支えてくれたのは、愛犬たちの存在。
年明けには6歳になるが、いつまでも元気でいてほしいと心の底から祈ってしまう。

そして、最後は、相変わらず乗っているバイク。
思い切って、3年ぶりにサーキットを走った。
不思議なもので、走り出すと、心も体も熱くなってきて楽しくなる。
来年は、もっとたくさん走ろう!
というわけで8月、9月に発売される話題の車を予約してしまった。
久々の250ccの4気筒バイク。
人気が高く、何か月も納車待ちだったが、なんと大晦日12月31日に受け取れることになった。
考えてみたら、そろそろ免許返納の時期も考え始めなければならない歳だが
数少ない「好きなこと」だし、この気持ちが燃え残っている間は、心を温めてもらおうと思う。

あと3日で元日、数えで70歳。古稀だ。
仕事では、自分にしかできないこと、やっておかなきゃならないことを、鞭打ってやり遂げる。
プライベートでは、熱があるうちに、やり残したことに飛び込んでいきたいと思う。
まだまだ、人生はこれからだ!
来年も、よろしくお付き合いください。
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2020年11月20日 コロナパニックに惑わされず、平常心で、営業中です |
11月も下旬に入った。
10月は 売上が前年比90%以上まで戻り、順調に回復していたが、今月は第3波が騒がれ始めて予約に急ブレーキがかかってしまい、頭打ちになってしまった。悩ましい。
ところで、今年も 「月刊 ホテル旅館」(柴田書店発行)の1月号に寄稿させていただく機会をいただいた。その原稿を以下に転記します。
年頭所感 「2021年の展望と課題」 コロナ禍を生き残る施策とポストコロナを見据えた施策
当社は6月が期末のため、コロナ禍は前期決算に大きな影響を与えました。売上は創業から25年目にして初の前年割れ、11期ぶりの赤字に終わりました。
3月から業績悪化が顕著になってキャンセルが殺到しゴールデンウィークは壊滅的でした。先行きの資金繰りに不安を感じ、借入れを増やしたのはこの頃です。
4月に緊急事態宣言が発出されてからは移動自粛ムードが強まり、役所から休業要請を受けたり、近隣から「営業を停止すべきだ」という抗議の電話を受ける店舗も複数ありました。
支配人も感染リスクを恐れ不安を感じていたに違いないのですが、「休業はしない、感染が明らかでない限りすべての方を受け入れる」という指示を出し、通常営業を続けてきました。宿泊者ゼロが続いている店舗の場合、休業して「雇用調整助成金」の支給を受けた方が得、という判断もありえたのですが、「車社会のインフラ施設」を自認し、誰もが気軽に泊まれることを大切にしてきたのですから、営業を続けることが使命だと考えたわけです。風評に惑わされず、他の施設で敬遠されるような方々もけっして差別しないというポリシーが試されることになりました。
自宅に帰ることが難しくなっていた病院関係者を数多く受け入れ、明らかに自主隔離で泊まられる方も拒みませんでした。テレワークの需要に応え、デイユースもスタートさせました。
その後、第1波がおさまり6月には予約が戻り始めましたが、7月に入って第2波が騒がれるようになり夏休みも取り返しのつかない状況に終わりました。
そんな中で、7月22日から「GoToトラベル」キャンペーンが始まりました。料金が安いため、効果は限定的だと予想されましたが、参加しない選択肢はありませんでした。その結果、この数か月間、対応に膨大な手間を強いられ、振り回されています。現場を知らない官邸主導で強引にスタートした緊急対策ですから朝令暮改は当たり前、事務局に問い合わせても要領を得ず、割引を期待して予約されるお客さまとの間でストレスばかりが増えていきます。予約商売のため、早めに制度の詳細が決まらないために混乱が生じるのです。加えて、10月からは「地域共通クーポン」の配布も義務付けられ、数日前になっても券が届かないなど、綱渡りの状況がピークに達しました。
当社の場合、直予約が多いため、今も先々の予算枠が決まらないことで気をもんでいます。割引分の入金は先になるため、資金繰りの面でも不都合が生じます。これは予約サイト企業を優遇して中小の宿泊施設を淘汰し、キャッシュレスを促進するという隠れた意図があるのではないかとも感じています。利用者をさもしくし、旅の価値を変質させている、これは行うべきではなかったというのが個人の感想です。
9月からは回復基調となり、10月にはようやくほぼ例年の9割前後まで戻ってきましたが、第3波の不安が広がって先行きは不透明なままです。
冷静にデータを見ると、新型コロナによる死亡者は例年のインフルエンザを下回っています。しかも、60歳以下の死亡率はほぼゼロのようです。検査の陽性者を感染者と呼び、不安心理を掻き立てる。これこそ、恐怖心に駆られたパニックというべき状況ではないでしょうか。
数年後、あの騒ぎは何だったのだろう、という日が来るかもしれません。その日が一日も早く訪れることを祈ります。
リーマンショックや東日本大震災の時と同様、「ファミリーロッジ旅籠屋」は平常心で営業を続けます。移動する自由を支え続ける、宿泊業の価値は目先の損得ではなく、世の中の圧力に同調することでもなく、もっと根源的なものだと信じているからです。
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2020年9月22日 名誉棄損 |
先週の金曜日は、年に一度の定時株主総会だった。
コロナ禍で、どれくらいの方にご参加いただけるかと案じていたが、
例年通り、一般株主も10名近く、業績悪化に対する厳しい質問もあり、1時間以上の長時間総会となった。
もともとシャンシャン総会を良しとしているわけではないから、何時間かかっても問題ない。
過去、貴重な提案をいただいたこともあり、こうした緊張感を与えられることは、経営者に必要なことだ。
ただ、残念だったのは、ある株主から、私からすると、言いがかりのような不信感をぶつけられたことだ。
彼の主張の要点は、以下のようなことだった。
1.業績の急激な悪化により、数か月後には債務超過(負債が資産より大きくなる)になり、金融機関の奴隷のようになってしまう。
2.今回の業績悪化は、それ以前の放漫経営のつけであり、これは社長の経営のやり方に根本的な原因がある。
3.放漫経営の例としては、以下のようなことがある。
@ 初期に比べ、新店舗の家賃が大きく上がっており、その支払いが収益性を損ねている。
その原因は、社長と常務だけで勘に頼って決めている、社長が大和ハウスのおべんちゃらに乗せられていること等である。
A 経費の付け替えなどの粉飾決算を行っていた。
B 私が様々な提案を行っても、不機嫌そうな顔をするばかりで、採用しようとしなかった。
そう、この株主は3年前まで、本社スタッフだった人間だ。
在職期間は約5年半。入社時は、すぐにでも役員になってもらい、次代を担ってほしいと期待した人だった。
その彼が今、 「私は、会社の内情を知っている人間ですから、株主の皆さんはだまされてはいけません」と、
出席者に対し、同調を求めている。社外の株主には説得力があるに違いない。
そして、最後に、私に次のふたつの選択を提案してきた。
A.過去の誤りを認め、即時退任する。そうすれば、新しい経営者のもとで、良い会社になる。
B..このまま職にとどまれば、株主代表訴訟により、個人財産のすべてを失うことになる。
15分くらいだったろうか、彼の演説が終わるまで、黙って聞いていたが、
主張の1については、理解できなかったので、銀行出身である監査役にその場で尋ねてみた。
監査役の答えは「たとえ債務超過の状態に陥っても即座に返済を求められることはなく、隷属することにはならない」だった。
私の理解もまったく同じだ。まったく心配していない。業績の回復に時間がかかることは、みんな承知の上のことだ。
主張3の中の粉飾決算という指摘については聞き捨てならないことで、思い当たることがないので、具体例を挙げるよう求めたが、
明確な回答は得られなかった。
間違いなく彼は株主代表訴訟とやらを起こすだろうから、裁判所でひとつひとつ反論していけば良い。
しかし、自他ともに誇ってきた「公正で、隠し事をもたない透明な経営」を、このように否定されたことは、何より腹立たしく怒りを感じた。
総会には、当社を担当する監査法人や税理士法人の方も同席していたが、やましいことは何もないので、かえって好都合だ。
今気づいたことなのだが、本社には密室となっている「会議室」というものがない。
打合せテーブルは 1階と3階にあるのだが、どちらにもスタッフの机があり、人払いすることはない。
無防備というか、非常識と言われるかもしれないが、隠し事があるように思われることすらイヤなのだ。
過去26年間の私の経営が、放漫経営だったのかどうか。
私は、まったくそうではなかったと自負しているのだが、考え方の違いにより、賛同する人もいるのだろう。
例えば、
・「誰もが気軽に利用できる宿を全国に整備する」という創業理念にもとづき、高い収益の見込めない地域に出店することもある。
・同様に、たとえ収益性が低い店舗でも、安易に撤退せず、営業を継続していく。
・今回のコロナ禍のように急激な業績の悪化があっても、信用を重視し、可能な限りオーナーに対して家賃の減額を求めない。
・学歴職歴などに恵まれない多様な方たちを雇用し、リスクを引き受けながら、その生活を守るため、休業も減給も行わない。
こうしたやり方を放漫経営というのだろうか。でも、これは経営方針の問題であり、会社の理念の問題である。
社員の意見を経営者が採用しなかったからといって、それを放漫経営と決めつけられても困る。
余談だが、私は、取引先からの中元歳暮の類は一切受け取っていない。
「儀礼はやめましょう」と常々お願いしているが それでも会社に届くわずかな品々は本社スタッフ全員で、じゃんけんして分配している。
同様に、取引先との飲食は、「各自の自腹で」と強くお願いしている。
逆に、こちらから儀礼の品を送ることはないし、年賀状も出していない。
とにかく、私利私欲につながる、あるいはそのように見られる役得は厳しく排除しよう、というのが、私の強い思いである。
これは、毎年、大量に届く中元歳暮に対し、ひとつひとつ同額の返礼を送り続けていた父の姿勢と、
かつて勤務した住宅メーカーで体験した苦い記憶があるからだ。
小さな接待や貸し借りがしがらみを生み、癒着となり、社内外の信頼関係を損ね、公正な判断を難しくしていくからだ。
あらためて説明する機会はほとんどないのだが、社会経験の乏しい若い社員には伝わっているだろうか。
私が、大和ハウスの方たちのおべんちゃらに乗せられて、高い家賃を受け入れている? 笑うしかない。
このように見られていたなんて、びっくりしてしまった。
デリケートな面があるので、あまり触れられないことだが、
会社の経営者にとっての一番のストレスは、自分の思いを曲解し、妨げようとする一部の社員との関係ではないかと思う。
これは、信じている目的の方向に皆を引っ張っていこうとするリーダーなら避けて通れない永遠の悩みなのだと思う。
サラリーマン経営者であれば、出来上がった組織に「処理」を任せて他人事にするだろう。
皆を引っ張っていく気持ちを持たない管理者なら、「変わった人だね」と、笑って放置するだろう。
突き付けられたふたつの選択肢、もちろん私は、ここで退任するつもりはないと即座に答えた。
基本、今までの方針を変えるべきだとも考えていない。
何度も言ってきたとおり、26年前、私は個人の利益や名声に憧れてこの会社を起ち上げたわけではない。
もし、そうなら、まったく割に合わない26年間だった。
メディアに対しても、こちらから自分を売り込むことなど、性に合わないことだ。
年々つもっていくストレスから解放され、気ままに余生を楽しみたい。これが正直な願いである。
こんな、社長にあるまじきつぶやきを聞いた人は少なくないはずだ。
だから、私利私欲のために、今の立場にしがみつきたいなんて、まったく思っていない。
ただ、ずっと願い、わずかでも実現してきたと自負している「社会的企業」としての「旅籠屋」の灯を、
消えることなく、揺らぐことなく、次代に引き継いでいきたい、その思いだけで、自分に鞭を打っているだけだ。
信じてくれている人も、たくさんいると思うのだが、裸の王様になっているのなら、いつでも放り出します。
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2020年9月16日 事実 |
猛暑の夏休みが終わり、ようやく過ごしやすくなってきたが、コロナ禍の影響はだらだらと続いている。
1か月前に書いたとおり、5月後半からの回復傾向が、陽性者数の再増加や自粛ムードによって急ブレーキがかかり、
最大の稼ぎ時である8月も、7月以上に低迷してしまった。
10日ほど前、国立感染症研究所が致死率を改めて推計した結果が発表されていた。
全年齢 50歳未満 70歳以上
第1波(1/16〜5月)の致死率 5.8% 0.2% 24.5%
第2波(6月〜8/19)の致死率 0.9% 0.0% 8.7%
第1波と第2波を比べると、検査拡大で無症状や軽症の陽性者が多く報告されたことや治療法の改善が指摘されている。
それにしても、PCR検査で陽性と判定された50歳未満の人たちの致死率は0.0%(ゼロではなく、0.05%未満ということでしょう)。
これが、事実です。
この自粛ムードは、冷静な判断を離れたコロナパニックだと言えるのではないでしょうか。
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2020年8月14日 ディストピア |
監査法人による会計監査や税理士法人による税金計算が終わり、昨夕、決算速報をリリースした。
3月決算の企業と異なり、コロナパニックの影響を4ヶ月以上受けたこともあり、2億円近くの赤字決算になってしまった。
固定費の高い商売なので、売上の上下が利益の増減を大きく左右してしまう。
赤字になるのは11期ぶり、売上が前年を下回るのは創業以来初めてのことである。
こうした決算は致し方がないとして、悩ましいのは5月後半からの回復傾向が、陽性者数の再増加や自粛ムードによって
再びブレーキがかかってきたことである。
7月の売上は前年同月の62%にとどまり、8月も同程度になりそうだ。
一番の稼ぎ時である夏休みの低迷はつらい。
9月以降の行楽シーズンに向けて、自粛ムードが鎮まり、旅行需要が大きく回復していくことを祈るばかりである。
それにしても、世の中の異様な雰囲気は、どうしたことか。
電車の中はともかく、街を歩くほぼすべての人がマスクをしている。
まるで、以前どこかで観た未来のディストピア世界を描いたSF映画のようである。
皆が表情を隠し、他人を警戒し、同調しない者を探し出してにらみつけようとしているようだ。
あー恐ろしい、不気味で怖くなる。
私個人は、電車や人ごみの中以外はノーマスクである。
先日、いつも通っているスポーツジムで走っていたら、珍しく出勤していたスタッフにマスクの着用を求められた。
フロアに居たのは私一人だったし、マシンは1台ずつシートでさえぎられているし、何よりマスクしながら走りたくない。
その日は たまたま持参していなかったので、そのように訴えたが、結果として追い出されてしまった。
ジムでクラスターが発生したニュースは知っているし、企業防衛上もスタッフはそのような対応を強く指示されているのだろう。
理由も立場もよくわかる。 されど、怒りがおさまらない。
まるで、書類の不備だけで冷たくはねつけられたり、外見だけで排除されるような感じ、本能がこれは違うと叫んでいる。
あー息苦しい。
こんなことを書くと、「それはあなたのわがまま、みんな我慢しているのだから」という「もっともらしい正論」が聞こえてくる。
感染拡大を抑えることによってかけがえのない命を守る、もちろんその目的はわかっている。
しかし、ウィルス曝露者数>PCR検査陽性者数>感染者数>発症者数>要入院治療者数>死亡者数、と分解して考えれば、
事態は明らかにPCR検査陽性者数ばかりにおびえて集団パニック状態に陥り、「正しく恐れる」とは到底言えないと思う。
はっきり言って、騒ぎ過ぎ、おそるるに足らず、と私は考えている。
それにしても、みんなはこういう状況に違和感や怒りや不気味さを感じないのだろうか。
それとも、すっかり慣れてしまっているのだろうか。
リスクを怖れ、無難に逃げ込み、同調圧力に結果として加担する。
こういう感性や行動パターンが、さまざまな差別や争いや不公正を生んできたと感じたりしないのか。
当社は、ひとりひとりの自由を大切にするために、多様性を尊重することを重要なポリシーとしている。
パンフレットにもこう書いている。
「いろいろな個性や違いを受け入れ、少しずつ寛容になることが自由を支えているのだ」。
決算の話しに戻る。
驚かれる人も多いと思うが、当社の役員報酬は、私を含め年間1000万円に届かない。
あとは利益連動の役員賞与や配当金が加算されるわけだが、今年は両方ともゼロ。
収入が1/3以上も減ってしまうのだから、正直言ってつらい。
楽しみにしていたクルーズも中止、海外旅行にもいけない。
気持ちの支えは、普段のまま何も変わらない愛犬たちと、購入予約したこのバイクだ。
数か月先になるらしいけれど、早く乗りたい。
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2020年6月2日 たどり着いた結論 |
6月に入った。
数か月で 約10億円の資金調達を果たし、平常心で事業を継続できる基本が確保できた。
先が見えなかった利用者の減少もGW頃に底を打ち、回復傾向が明らかになってきた。
壊滅的な影響を受けている宿泊業界で、すぐれて堅実な状況にあると言えると思う。
とりあえずは一安心である。
創業から25年、バブル崩壊や リーマンショックや東日本大震災など、大きな災禍をしのいできたが、今回もしぶとく乗り越えられそうな気がしてきている。
500年、1000年企業を目指しているのだから、この程度の逆風で吹き飛ばされるわけにはいかない。
そのためにも、ピンチはチャンス。
絶好の成長機会として活かしていこうと、業務の見直しに取り掛かっている。
さて、先日来考え続けているコロナの問題。
先日もあるテレビ番組を見て、なんとなく腑に落ちる考えにたどり着くことができた。
そのきっかけは、日本人の哲学者が紹介していたドイツのメルケル首相の3月18日のテレビ演説で語られた以下の言葉だ。
日常生活における制約は、
渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られてきた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、
絶対的な必要性がなければ正当化し得えないものなのです。
民主主義においては決して安易に決めてはならず、決められるのであればあくまで一時的なものにとどめるべきです。
しかし、今は命を救うためには避けられないことなのです。
言うまでもなく 、この言葉の背景には東ドイツで生まれ育った彼女の切実な経験と歴史認識がある。
そして 、そこから導き出された人間の営みの根本についての哲学がある。
ドイツの人々はうらやましいなと思った。日本のリーダーにもこうした「哲学」を語ってほしいと思った。
間違いなく私の感性や考え方の根底には「個人の自由を大切にしたい、するべきだ」という強い思いがある。
「自由」といってもいろいろある。
日本国憲法の中だけでも、思想・良心の自由、信教の自由、学問の自由、集会の自由、結社の自由、表現の自由など
さまざまな「自由」が明記されている。
ただ、こうした自由の中でも、もっとも基本的で重要なものが「移動の自由」だ、と私も思う。
再び日本国憲法に戻れば、それは居住移動の自由、外国移住の自由、国籍離脱の自由などを含む。
以前にも紹介したが、旅籠屋の「総合ガイド」の冒頭に「気兼ねなく、好きな時に、好きな所に行ける自由」のことを掲げている。
つまり、宿泊施設、少なくとも「ファミリーロッジ旅籠屋」がもっとも大切にすべきことは、その自由を守ることだという信念がある。
そのために、分け隔てなく気軽に泊まれる、すなわち多様性を受け入れるというポリシーがある。
抽象的なきれいごとではない。
ファミリー・カップル・ビジネス・ペット連れなど目的や構成の違い、
年齢・性別・人種、身なりなどの外見や身体的な違い、
言語や文化的習慣などコミュニケーションに関わる違い、
非常識でわがままなクレーマーを含め、性格や考え方の違い、
いわゆる障害と呼ばれる差異を含むすべてに関わる多様性。
いずれも、予断・偏見・先入観にとらわれず多様性を受け入れるということは、それなりのリスクを引き受ける覚悟を持つということだ。
ひるがえって、今回の外出自粛要請。
新型コロナウィルス感染の恐怖が強調されるが、少なくとも日本における感染状況を見る限り、
絶対的な必要性があるとは、到底思えない。
命か経済かではなく、感染拡大のリスクを抑えるために人間社会の根本を支える「移動の自由」を制限すべきかどうかという問題ではないか。
ゼロリスクを求めるのなら、そもそもインフラを支えるサービス業など成立しない。
戦争中にも行われなかったほどの移動制限を行う必要性を、この数か月の状況の中で、私は認めることができない。
そんな風潮や風評に流されることこそ、いさめるべきことだという反骨心が湧いてくる。
「自粛警察」の感情的糾弾を甘受し、「ファミリーロッジ旅籠屋」は平常通り営業を続ける。
他県ナンバーだからと石を投げられる人にも宿を提供し続ける。
そのリスクをとりたくないのなら、病院や交通機関や宿泊施設で働く人々は転職を考えるべきだ。
職業選択の自由は、もちろんある。
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2020年5月12日 示唆に富む言葉たち |
嫌いなのに、半ば義務感で何十年も目を通し続けている朝日新聞、毎日毎日30分近くを費やしているので膨大な時間をとられているわけですが、
新型コロナに関する以下のようなインタビュー記事に出会うと嬉しくなります。
< 社会を覆う「正しさ」
>(5月8日、磯野 真穂さん)、<私の人生、不要不急?>(5月12日、養老 孟司さん)。
とても示唆に富んだ内容なのでぜひ一読いただきたいのですが、有料記事なのであえて要約させていただくと、およそ次のようなことが述べられています。
医療人類学者の磯野さんは、ゼロリスクを目指す「道徳的な正しさ」は、遠くの人にはエールを送りながら近くの人を排除する矛盾を生んでおり、
同時に 「安全な人や集団」と「危険な人や集団」を分ける「村八分」を招いていることを指摘し、リスクとの寛容な付き合い方を提言されています。
解剖学者の養老さんは、感染拡大抑止のなかで、「不要不急」かどうかということが判断基準として言われているが、人生は本来、不要不急ではないのか。
ヒトとウィルスは共生していくしかないことを含め、要は各人の問題であり一元的な価値基準で善悪が断じられることへの疑問を遠回しに述べられています。
緊急事態宣言が発出されて以降の自粛が功を奏し、ようやく感染拡大の勢いが弱まり、宣言解除や自粛要請の段階的縮小のニュースが増えてきました。
「旅籠屋」 は、手洗いの励行、マスクの着用、換気の徹底、消毒薬の常備、フロントへのスクリーンの設置など
感染防止に努めながら全店営業を継続してきましたが、4月・5月とも売上高は前年に比べて7割減、6月末の決算では、創業25年目にして初めての減収、
11年ぶりの赤字は免れない状況となっています(詳しくは、先日発表した「第3四半期報告書」や「決算短信」をご覧ください)。
休業しないことについては、「こんな時に営業を続けているのはけしからん!」という抗議の電話をいただくこともあったのですが、
その悔しさや迷いや矜持について、旅館経営者からの視点で率直な思いを述べられているエッセイに出会い、勇気づけられたりしました。
<コロナで揺らぐ、宿泊施設の存在意義>(4月28日、永山 久徳さん)
「旅籠屋」は、帰宅困難な医療関係者などの宿泊に活用いただいたり、テレワークのためにデイユース利用を受け入れたりして喜ばれているのですが、
事の本質は目先の社会的要請に合致して世の中の役に立っているかどうかではないように思うのです。
そうでなければ、パチンコ店やライブハウスなどの施設や、仕事以外で旅に出る人は自分勝手と責められ一方的に切り捨てられることになります。
新型コロナウィルスのリスクばかりが強調されますが、身の回りに感染症はいくつもありますし、ゼロリスクを言うなら車のような人殺しの道具には乗れないし、
「得体のしれない」他人と共存したり、文化も風習も異なる知らない土地への旅行などすべて排除すべきことになってしまいます。
世の中のムードにあわせていれば無難ですし、被害者としての立場に徹していれば気楽ですが、それは違うだろうという気がしてなりません。
自らの利益だけを考えるわがままを許すつもりは微塵もありませんし、感染拡大抑止に努めることは当然ですが、
そこから先は、一定のリスクを引き受けながら、互いに寛容な姿勢で、通常通りの生活や事業を続けていく、人間の社会はそんなものだと思うのです。
言い換えれば、多様性を受け入れることによってそれぞれの自由を守り通すということです。
もう少し、考えます。
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2020年5月8日 論点整理 |
「ファミリーロッジ旅籠屋」の「総合ガイド」の冒頭に、「旅は、自由。」と題して、以下のような文章を載せています。
気兼ねなく、好きな時に、好きな所に行ける。
当たり前のことのようですが、今世界中で、こんな自由に恵まれた人々がどれだけいるのでしょう。ほんの一部に違いありません。
心と体の健康、ある程度の経済的ゆとり、車社会のインフラ、個人を大切にする平和で安全な社会。
これらの条件がそろわないと得られないことだからです。
50年前はどうだったのでしょう。50年後はどうなるのでしょう。
長い長い歴史の中で、無数の人たちがあこがれ、願い、ようやく手にした夢のような時代と場所に私たちは生きています。
当社では、新入社員研修の中で、必ずこの文章を読み上げながら会社のポリシーを説明します。
しかし、「50年前はどうだったのでしょう。50年後はどうなるのでしょう」という問いかけに対し、つい数か月前までは「?」という反応が通常でした。
今あるものは昔から当たり前にあり、これからも続いていくはずだ、そのように考えてしまう人が多いのです。
過去を振り返ってみても、誰もが気軽に海外旅行に出かけられるようになったのは、つい数十年くらい前からのことなのです。
例えば、査証(ビザ)、つまり入国許可証。
ご存知の通り、本来、他の国へ渡航する際、その国が発行するビザの発給を事前に受けなければなりません。
これを省略してパスポートだけで他国に入国できるのは、ビザ免除の取り決めがなされている場合だけなのです。
私が初めてアメリカに行ったのは1987年12月のことでしたが、その時は、事前にアメリカ領事館にビザ発給の申請を行った記憶があります。
調べてみたら、日本人に対して90日以内の観光や商用旅行についてビザ免除が認められたのは、ちょうど1年後の1998年12月からのことだったようです。
ちなみに、1年ほど前、日本のパスポートが世界一強くなった、つまり、日本がビザなしで最も多くの国(約190か国)へ渡航できる国になった
というニュースが報じられていました。
そして、現在と未来についてです。
数か月前には想像もできなかったことですが、今、世界中の国々が鎖国状態で、原則他の国へ旅行することができなくなっています。
加えて、 国内でも県をまたぐ不要不急な旅行は自粛することが要請されいます。
「50年後」どころか、数か月も経たないうちに「気兼ねなく、好きな時に、好きな所に行ける」自由は失われてしまいました。
この不自由な状況については既視感があります。 1973年の第1次オイルショックの時のことです。
イスラエルとアラブ諸国による第4次中東戦争の影響で原油価格が急騰し、世界中がパニックになりました。
日本ではトイレットペーパーの買い占め騒ぎが有名ですが、それ以外にも以下のような出来事がありました。
・テレビ深夜放送の休止。
・デパートのエスカレーター運転中止。
・地下鉄照明の間引き。
・ネオンサインの早期消灯。
・野球のナイターの開始時間の繰り上げ。
これらは、節電による石油消費量の減少を直接ねらったことですが、あわせて、不要不急な娯楽は控えるべきだというキャンペーンがはられました。
その結果、起こったのが、以下のようなことです。
・ガソリンスタンドの日曜日休業。
・自動車メーカーによるモータースポーツからの撤退。
仕事なら良いが、マイカー旅行は自粛しよう、という呼びかけがメディアで叫ばれ、世論も同調、これを守らない人は自分勝手だと批判されました。
当時、大学生であった私は、こういう感情的な同調圧力に強い違和感を感じたことを覚えています。
このような状況がいつまで続いたのか、よく覚えていませんが、オイルショックが与えた影響はきわめて大きく、
経済は戦後初めてのマイナス成長となって高度経済成長が終焉、省エネ意識が高まっていきました。
すでに1960年代から公害問題など経済成長のひずみが顕著になり、「モーレツからビューティフルへ」というテレビCMが話題になったりしていたのですが、
多くの人の意識において楽天的な未来志向が冷め、根底から価値観が変化していったのはこのオイルショックが契機だったように思います。
話しは変わりますが、最近、高齢者がとかく否定的に語られることがあります。
自分たちの目先の利益ばかり考えて問題の解決を先延ばしにしてきた。そのツケを若い世代に背負わせている。
しかし、長く生きてきたことの財産もあります。それは、世の中のさまざまな様子を実際に体験してきたことです。
私は戦後生まれですが、それでも傷痍軍人や防空壕など、戦争の臭いを鮮明に覚えています。
そして、ほんとうに皆が貧しく、生きて行くのに必死だった様子。そのせいもあって公衆道徳に欠け、列を守らず、タバコやゴミを捨てる人が多かったこと。
国産品は粗悪で世界でバカにされていたこと、日本人は粗野で醜悪な「イエローモンキー」だと軽蔑されていたこと。
いっぽう、デモや騒乱が頻発し、先日の香港のような状況もあったこと、けっして政治や社会に無関心な時代ばかりではなかったのです。
中国人観光客の爆買いや東南アジア諸国のエネルギーあふれる様子は、 「エコノミックアニマル」と揶揄されていたかつての日本の姿です。
感染症の流行については、衛生状態がずっと劣悪だったし、情報も限られていたため、今回のコロナ禍ほどの騒ぎは記憶にありませんが、
小児麻痺(ポリオ)は身近でしたし、日本脳炎への警報もよく耳にしました。
あとは、1968年から1969年にかけて流行した香港風邪。調べてみたら、死者は世界で50〜100万人、日本でも2千人を超えたそうです。
未知のウィルスによるパンデミックですから、今回の新型コロナウィルスとまったく同じですが、死亡者は数倍も多かったわけです。
私を含め、 高齢者はこのように様々なことを体験しています。
ですから、新しい出来事に対しても耐性を持っているはずで、パニックにならず、冷静に判断して経験を活かさなければなりません。
若い人以上に感情的になったり、逆に個人的な達観に逃げ込んで無関心を装う人もいるようですが、それではいけません。
こんな時こそ、落ち着いて状況を俯瞰し、知恵を出すべきだと思うのです。
話しが本題から離れてしまいました。
考えなければならないのは、コロナ禍の中で、どう生きていくべきか、何を判断の基準にすべきかということでした。
生命の安全と個人の自由の選択を迫られれば誰でも前者を選ぶ、と誰かが言っていました。
ほんとうにそうでしょうか。
そもそも、こんな二者択一の設問に対して答えを求めることに問題があるように思います。
生きている限り病気や事故のリスクはあるし、社会生活を営む以上完全な個人の自由などというものもありません。
考えるべきことは、以下のことを短期と長期に分けて整理してみることではないかと思います。
1.感染拡大抑制の目的は、医療崩壊の防止なのか、感染者を少なくすることなのか、死亡者を最小限にすることなのか。
2.経済的なダメージを最小化するために最適な方法とは何か。
3.従業員(施設の運営者)と、お客様(宿泊者)の感染リスクはどう異なるのか。
4.会社を存続させ、ダメージを最小化する方法とは何か。
5.そもそも宿泊施設が存在する社会的意義とは何か。
すっかり回り道してしまいましたが、まだまだ考えます。
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2020年5月6日 コロナ対策の基本戦略 |
じつに様々なニュースが飛び交っていますが、私が一番なるほどと思ったのは、感染医の高山義浩さんがfacebookに投稿していたこの分析です。
1番目は、都市封鎖を含めて徹底的に感染を限られた場所や地域に抑え込んで蔓延を防ぐ「封じ込め路線」、
その例として、中国、韓国、台湾、ベトナム、タイ、マレーシア、シンガポール、ニュージーランド、オーストラリア、アイスランド、ハワイ州が挙げられています。
2番目は、感染者が急増して医療崩壊が起きない程度に感染拡大のスピードを抑える「コントロール路線」、
その例として、イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、日本が挙げられています。 3番目は、集団免疫による終息を信じ、最小限の感染抑制策しかとらずに感染拡大を容認する「拡大許容路線」、
その例は、スウェーデン、ブラジル、(方針変更前の)イギリスとオランダ。そしてアフリカなどの発展途上国もやむを得ずこの路線を採りつつあるようです。
経済活動の抑制、すなわちダメージの大きさで見れば、1番>2番>3番、
予測される死亡者の数で見れば、逆に、3番>2番>1番ということになるようです。
これは、すっかり有名になったジョンズ・ホプキンス大学によるシミュレーションでも示されていました。
もちろん、これら3つの路線=戦略には、以下のような前提条件があります。 ひとつは、感染者の大部分が無症状あるいは軽症で、致命率(致死率)が1.5〜3%以下にとどまること。
エボラ出血熱のように、致死率が50%を超えるような感染症の場合、3番目の路線を採ることは許容されないでしょう。
ふたつ目は、感染者は必ず抗体を持つようになり、その後は一定期間再感染することも、他の人へ感染させることもないだろうということ。
この点が未だ明確になっていないことが問題を複雑にしています。 3番目はもちろん、2番目の路線も、こういう期待を前提にしているのですから。
みっつ目は、いずれ、ワクチンや特効薬が開発されるに違いないと考えられていることです。
この期待が早期に実現しないとすれば、1番目の「封じ込め路線」は、いつまでも規制を緩めたり、鎖国を解くことが出来ず、
感染者が少ないだけに終息にもっとも長い期間を要し、経済的にも狭い範囲の内需に頼るしかなくダメージも大きくなります。
逆に、3番目は医療崩壊を甘受するわけですから際限なく死者が増え続け、社会全体が崩壊してしまうことになります。
PCR検査の数や規制の程度など、断片的な意見や批判が目立ちますが、こうして全体的な戦略を整理して眺めてみると、
医療体制の基礎体力、貿易依存度や内需経済の大きさ、国や自治体などの統治能力、人々の死生観や価値観など、
それぞれの国や地域で対応が異なるのは当然で、答えは一つではないことがわかります。
日本の場合、医療体制は充実しているものの、ICU病床や感染症対応力には脆弱な面があるようです。
経済面でいえば、もちろん貿易依存度は低くないのですが、一定の内需があり、ある程度は鎖国状態に耐えられるのかもしれません。
そうしてみると、2番目の「コントロール路線」を採っていることは、最適な選択だったように思えてきます。
しかし、これも、「集団免疫」の効果が発揮され、ワクチンや特効薬の開発が近い将来実現しないとジリ貧になってしまいます。
もちろん、そうでなければ、1番目の「封じ込め路線」も、3番目の「拡大許容路線」も結果は同じになってしまいます。
このように、現時点では、終息への道筋が見えないため、路線の優劣の判定もできませんし、 政府や自治体からの要請に対する対応も決めにくいのです。
しかし、個人としても、会社としても、今この時の方針を定めないわけにはいきません。
ところで、以上のこととは別の次元の判断基準はないのでしょうか。
その一つが、個人の自由を尊重するかどうかという問題です。
その面で考えると、、3番>2番>1番ということになります。
いきなり、感覚的な話しになりますが、私個人は、ここで紹介されているパリ在住の哲学者の心情に共感を覚えます。
でも、個人的な感覚ではいけません。
さらに考えてみます。 |
2020年5月5日 考えるチャンス |
前回の日記から1か月近くが経った。
4月7日に緊急事態宣言が発出され、感染者は累計で15,000人を、死亡者も500人を超えた。
珍しく毎日欠かさずテレビのニュースを見て、ネットでさまざまな人の意見に触れている。
きょうも、NHKのBS1で、世界を代表する3人の有識者の提言を聞き、武漢のレポートを見た。
それぞれに一理あって、考えれば考えるほど迷ってしまう。
ひとりでも多くの命を救うのか、経済活動を維持してすべての人たちの生活を守るのか。
グローバリズムの機能停止と国家の復権は進歩なのか、後退なのか。
公共の秩序か、個人の自由か。独裁と民主主義は二者択一なのか。
これほど根源的な問いを突き付けられる状況は数十年ぶりのこと。
自分なりに考えを整理しないと、経営者として明確な方針を責任を持って示せない。
なぜ、店舗の営業を自粛しないのか。あえて社内懇話会を開催するのか。
というわけで、数日間、深く考え抜いてみようと思う。
というのも、先月は資金繰りの準備に努めて、10億円近くの資金確保の目途が立ち、心の余裕が生まれたからなのだ。
ここで思考停止に陥ってはいけない。 |
2020年4月12日 自粛と事業継続の狭間 |
新型コロナウィルスの感染拡大がなかなか収まらない。
数理分析にもとづく予想どおりであり、少なくとも数か月は自粛を緩める状況にはならないと覚悟している。
毎月の客室稼働率を公開しているが、2月後半から影響が顕著になり、3月は約1/3減少、4月は半減する見込みである。
昨年12月に老母を連れてドイツのクリスマスマーケットを訪ね、2月中旬にはエジプトのナイル川クルーズに出かけた。
今はすべて催行中止になってしまっている。
ぎりぎりのタイミングで幸運に恵まれたわけだが、半年前、世界中の国々が鎖国状態になるなんて、誰が想像したことだろう。
最近は国内旅行も自粛ムードで、私も15年来続けてきた「ハーモニカ教室」の合宿旅行が中止になり、楽しみにしていたバイクツーリングも延期した。
本社でも在宅勤務を認めているため、オフィスは閑散としている。
電車通勤の社員が集まる職場は、もっともクラスターになりやすい場所に違いない。
ただ、日本国内に限って言えば、新型コロナウィルスの感染者は現時点で累計7,000人足らず、死亡者数は100人を超えていない。
検査を絞っているため、実際の感染者はずっと多いに違いないが、
厚生労働省発表によれば、通常のインフルエンザの感染者(毎年10,000,000人)と死亡者数毎年(約10,000人)と比べてきわめて少ない。
こうしてみると、騒ぎ過ぎ、恐れ過ぎ、ここまで経済を委縮させることの合理性に疑問を感じてしまう、というのが私の率直な印象である。
予防法も治療法も確立されていない未知の病気であり、外国の状況を見ると、こうした見方は無責任な楽観論なのかもしれないが、
批判されることを承知で言えば、このままの状況が数か月も続けば、中小企業や自営業者の多くは倒れてしまう。
「病を治して病人を殺す」、それで良いのか。
とはいえ、経営者の務めとして、リスクに備えるため少しでも現預金を増やしておこうと金融機関に対し、積極的に融資の申し入れを行っている。
先々の心配とはいえ、資金繰りのことを考えるなんて、十数年ぶりのことだ。でも、 「備えあれば憂いなし」である。
20年前、旅籠屋にお金を貸してくれる銀行なんてなかった。
堅実経営が評価され、少しずつ信用力が増し、7年前からは代表者保証もなく、今では年0.5%未満の固定金利で融資いただけるようになっている。
ありがたいことだ。
とにかく、従業員の生活を守り、地域を支え、たくさんの利用者の必要に応え続けなければならない。
幸いなことに、店舗の支配人を含め、社内で感染者が出たという報告はない。
でも、みんな不安を抱え、心配している。
そんな中、今週は「長者原SA店」のオープン準備に皆で出かける。
そして、引き続き、東北各店の支配人を集め、恒例の「社内懇話会」を開催する。
延期してはどうか、との意見もあったが、ウィルスとの戦いは長期化し、常態化することを考えれば、重要な通常活動は維持継続するべきだと決断した。
マスクや手洗いはもちろん、室内でのミーティングは窓を開け放して行い、食事会も屋外で行う。
リスクを最小限に抑える努力をしながら、やるべき大切なことはやり続けるべきだと考えた。
結果としてこの判断が誤りであれば、経営者の責任が問われることになる。当然のことだ。
テレビも新聞もコロナの話ばかり。
いつのまにか、気が滅入って「コロナうつ」にかかりそうになる。
だから、昨日も今日も、いつものように隅田川テラスをひとりで走った。
先週から、ジョギングする人の数が目立って増えている。
こんな時こそ、体を動かし、汗をかいて、心の元気を保つ。
何百年も続く東京の老舗企業は、明治維新も、関東大震災も、戦争も乗り越えて今に至っている。
もっとも恐れるべきことは、いつも「心の中」にある。 |
2020年3月2日 新型コロナウィルスの大騒ぎ |
新型コロナウィルスのニュースで、連日大騒ぎである。
海外からの宿泊者が2%前後ときわめて少ないため、直接の影響は小さいのだが、それでも国内旅行を控える動きも顕著になっており、全国の店舗でキャンセルが相次いでいる。
昨年夏に毎週のように襲来した台風の影響に加え、こうした外的な要因による旅行客の減少は悩ましい。
しかし、これは、我々にはどうしようもないことであり、一喜一憂することなく、いつもと同じように客室を整え、全てのお客様を笑顔でお迎えすればよいと割り切っている。
それにしても、日本人は、横並びの自粛に走る人が多いような印象を受ける。
26年前、旅籠屋の創業を計画していた時に受けたアドバイスを思い出す。
「アメリカのMOTELのような宿泊施設を日本に? たしかに、アメリカにはあんなにたくさんあるのに、日本にはありませんよね。喜ぶ人はいるかもしれませんね。
でも、ビジネスとしては、うまくいかないかもしれませんよ。だって、ガソリンスタンド、コンビニ、ファーストフード、ファミリーレストラン、ショッピングセンターなど、
ロードサイドで誕生したビジネスはすべて日本に導入され、これだけ巨大になったでしょ。うまくいくなら、どこかの企業が、とっくに始めているはずだと思いませんか?」
日本人的な発想である。みんながやってるなら安心、誰もやっていないならやめとこう。 乱暴に言えば、アメリカ人は反対かもしれない。
誰もやっていないなら、やってみよう。みんなやってるなら、やめとこう。
政府は一斉に学校の休校や規模の大きなイベントの自粛を求めている。これに対する反対意見も多いようだが、オリンピックの中止や延期を避けるという目的もあるのだろうし、これについてここで批判するつもりはない。
私が違和感を持つのは、個人個人が風評に惑わされ、半ば恐怖に駆られて判断力を失って感情的になっていることだ。
店頭からは マスクや消毒薬だけでなく、ティッシュペーパーやトイレットペーパーや紙おむつまでもが消えている。再びの光景である。
自粛を求めるのは禁止する法的な根拠がないからなのだが、これに従う自治体や企業、そして個人が相次いでいる。
みんな、 「何かあったらどうするんですか? 責任をとれるのですか?」と言われるのを恐れているのである。
正論を言っているつもりかもしれないが、本音はそこにある。反論を封じ、異論を避ける。
考えてみたら、そんな言い方は無茶苦茶である。卑怯である。
生きている限り、何らかのリスクを負って生きている。大勢の人間がひしめき合って生きている現代社会はリスクの上にしか成り立たない。
いや、現代社会に限らない。古今東西、生きるということはそういうことだ。
昔放映されていた損害保険会社のテレビCMを思い出す。YOUTUBEに残っていた。これである。
新型コロナウィルスは、感染力が低くないようだ。でも、重症化する可能性も低そうだ。
かつて流行した新型インフルエンザと比較しても、過度に危険視する必要はないのではないか、それが、現時点での客観的かつ科学的な見方のように思う。
自主的に通勤や通学を控えたり、用品を備蓄したりすることを否定しない。自己判断でどうぞというだけだ。
私の場合、睡眠と休養をとるように心掛け、できるだけ人ごみを避けたりするだけで、あとは日常どおり。
ただし、宿泊業を営む立場としては、一般の人以上のリスクを引き受けてでも、ぎりぎりまで店舗の通常営業を維持し続けるよう覚悟を決めている。
医療関係者や自治体関係者など公益性のある仕事に従事している人間はもちろん、誰だって自分の持ち場を守る、
社会人としての責任やプライドって、こういう時のためにあるんじゃないか、と私は思う。
その意味で、勝浦の「ホテル三日月」の人たちには心からの敬意を抱いている。
いろいろ批判されている「ダイヤモンド・プリンセス」のスタッフに対しても同じだ。もちろん、船長は最後まで船にとどまったはずだ。
当然のことを行うことは、なかなか難しい。みんな、ヒステリックに魔女狩りしている。自分第一なのはわかるけど、人のせいにばかりするのはやめないか。
自分たちの身を守ることを冷静に考え、静かに行動すれば良いのだ。
さ ぁ、必要以上に、ワイドショーやニュースを見ないようにしましょう。
治療法がない以上、検査だって、受けたって仕方ない。
無用な心配をせずに、心を落ち着けて体調を整えるように心がければいいんです。
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